カンボジア視察
カンボジア国旗
(2005年4月28日〜5月5日)

 
 「第21回人口と開発に関するアジア国会議員会議」(APDA)が、2005年4月28日から5月5日までカンボジアの首都プノンペンで開催され、アジアの国、16カ国から54名が参加した。日本からは、谷津義男、生方幸夫、海江田万里、長浜博行各衆議院議員、桜井 新、清水嘉与子参議院議員、そして私、武山百合子(衆院)が出席しました。

 私は今回で3回目のカンボジア訪問。最初は、1994年世界女性デー、2回目は1998年、「アジア人口開発カンボジアプログラム」に参加、そして3回目の今回、特に心に残ったことを報告します。




カンボジア視察の様子
 
 飛行場の建物、待合室が立派になっていました。また、ホテルの水道水もきれいになり、大きな商業ビルなども建築され、商工業が活発に成りつつある印象を受けました。しかし、町の様子・社会資本整備状況・人々の表情・生活等を見ると、まだまだ、最貧国から脱皮しているとはとても思えない状況でありました。

 会議は、主に「緊急時における人口―社会・経済的復興における国会議員としての対応」というテーマでした。特に、緊急時における津波被害対策を中心に活発な議論が行われ、日本は阪神淡路大震災と、中越地震の経験を発表しました。

 多くの国から、日本が経験したことを学びたい、という意見が出され、中でもカンボジアの女性議員の目覚しい積極的な発言に多くの方が共感、賛同しました。

 この会議では女性の国会議員の発言が際立って積極的だったことが印象的でした。まさに「女性の時代」の感を深めました。 

 会議後、世界遺産のアンコールワット遺跡を視察。歴史が残した素晴らしい建造物に驚愕しました。その後、デコボコ道を2時間程行き、近郊の村を訪ね、行き着いたところは立派な病院でした。世界各国の援助で建築されましたが、医師が足りず、看護師は一人も見かけません。
タ・プローム仏教寺院遺跡にて 
カンボジア視察の様子
ガジュマロ

 カンボジアでの生活費は一ヶ月200ドルが必要といわれていますが、一般の人は収入が少なく、兼職をしてもなお、200ドルを稼ぐことは困難という。医師一人の給料でさえ、約25ドルと聞きました。日本では考えられないことです。これでは到底生活はできずこのような悪条件のところには医師として来る人がいません。

 また、外から立派な救急車や、手術室が見えましたが、ほとんど使われていないような状態でした。また、去年の統計によると、この村にはエイズ感染者が2000人もいるといいます。

アンコール・ワットにて
カンボジア視察の様子

アンコール・トムにて
カンボジア視察の様子


カンボジア地雷対策センター(CMAC)視察
カンボジア視察の様子

 

 次に、ハンディーキャップインターナショナル・地雷被害者リハビリテーションセンターを視察。目の前で13歳の少女が足を切断する宣告を受けていました。1970年代から約20年続いた内戦時に埋設された400万から600万個と言われる地雷と不発弾に触れて暴発、負傷もまた跡を断たないと言います。 
 連日、田畑で負傷者が出ており、そこにいた多くの子どもたちは、片足がなかったり、片手がなかったりで、本当に私は胸の痛む思いでした。

 元弁護士で30歳のベルギー人の男性が、この子どもたちのお兄さんや、お父さんとなって、突然の宣告で絶望的な子どもたちの精神的な支えになっていました。

 次にエイズ問題ですが、この国が抱えているエイズ問題の深刻さを垣間見ました。エイズについてカンボジア家族計画協会から話を聞いたところによると、ここではエイズにならないためにどうしたらいいか、エイズを正しく理解させるためのいろいろなプロジェクトが企画されていると言います。映像や紙芝居を用いたり、実際に避妊用具などを使い、少人数のグループや二〜三〇人のクラスに分けてエイズに対する認識を深める教育が実施されていました。皆、幼い顔をしている純真な青少年たちでした。
 

 このあとシェリムアップ市を後に、プノンペンに戻りました。首都プノンペンは人口約200万人。ようやく日本の援助で上水道がゆきわたりましたが、下水道は戦争で破壊されたままです。この国は、社会資本整備のために、まだまだ相当な時間がかかりそうです。国の主な産業は農業ですが、農村地帯では潅漑に必要な水が足りません。ここでは井戸もなければ、トイレもなく、電気もきていないところもまだたくさんあります。 EU/UNFPA青少年リプロダクティブ
ヘルスプロジェクト視察

カンボジア視察の様子

 翌日に行ったトゥール・スレン刑務所博物館は1970年から1975年にかけてポル・ポト派が数百万人とも言われているカンボジア人を処刑した場所です。頭蓋骨や処刑の現場、処刑5分前に撮ったといわれる写真等が陳列されていました。

 彼らは「助けてくれ」と叫んでいるようでした。

 国民同士で戦った結果、家族を失い、家も失い、身も心もすべてが壊れ、働く意欲も、国づくりにも力が入りませんでした。内戦後、35年も経っているのに、依然として多くの国民が十分な教育を受けられず、食べ物も少なく、着る物もなく、職もなく、まさに貧困そのものが続いており、このような状態を見て、カンボジア全ての国民が戦争の犠牲者だと思いました。まだ裁判が行われず、未だにうやむやの状態で大きな傷を引きずっていますが、ようやく国連主導の裁判のかたちができつつあり、日本は裁判に約23億円の援助を決定しました。

カンボジア視察の様子  また1000世帯が住んでいるスラムを訪問しました。40度近い猛暑の中で家もなく、井戸、トイレもないバラックにはエイズ感染者の家族も住んでいました。あと3日の命と宣告された30歳の若い母親や、夫婦と子ども3人全員がエイズ感染者という家族に会いました。彼らの収入は、1日1ドル稼ぐのがやっとであり「お金を頂戴」と何度も訴えられました。

 1997年の統計では国民の3.9%がエイズにかかっていると言います。去年のデーターでは1.9%に減ったという統計ですが、依然として問題は深刻です。夫が外でエイズに感染し、奥さんに移され、結局生まれてきた子どももエイズ、母子感染という悲惨さです。

 一番懇願されたことは、薬が欲しい、衣類が欲しいということでした。しかし、一度や二度、段ボール箱で薬や衣類を送ることはできても、継続して送り続けることはなかなか困難です。

 カンボジアから帰国早々の5月12日、生方議員とともにまず、国際人口問題議員懇談会 会長の中山太郎議員に、深刻なエイズ感染者に対する薬の支援と、医師・看護師の派遣を要請しました。 
  
 そして翌13日に私は、埋設されている不発弾の処理について、大野防衛庁長官に、自衛隊が不発弾の処理に貢献をして欲しい、と要請をしました。
  
カンボジアの厚生大臣と
カンボジア視察の様子

 6月8日には米国製薬工業会の人に会う機会を得たので、薬の支援のお願いをしたところ、大変有難いことに近々タイで会議があるので、そこで検討したいとお願いを受け入れてくれました。

 カンボジア視察に参加した仲間でカンボジアの人々の自立のために、私たち日本人が、これから何ができるか話し合った結果、予算編成の時、私たちが国連にカンボジア支援を強力に頼むことで認識が一致しました。
子どもたちの笑顔とは対照的に、カンボジアの現状は過酷な生活を強いられている人たちが多く、また過去の悲惨な歴史を忘れてはならないと強く思いました。 

  がんばれカンボジア!!   




元の記事は、こちらからご覧ください


トップページに戻る


Yuriko Takeyama
House of Representatives
The Democratic Party of Japan 2005


COPYRIGHT © 1993-2005 YURIKO-ONLINE.COM
- All Rights Reserved. Duplication is Strictly Prohibited.