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| 「お母さん体に気をつけて」
武山 宗司 さん お母さんが急に僕達の日常から消えたあの時、僕が18で弟が15で妹が13才でした。あれから始まったお母さんなしの生活は、たいへんでしたが僕はいろいろなことを学びました。食事も、洗濯も、掃除も、みんなで手分けしてするようになって、いかに家事に終わりがないかを知りました。 父は何でもスポーツ感覚で気軽にさっさとやっていました。料理も、父のいるときはみんなでわいわい言いながら、手分けしていろいろなものを作りました。みんな食べ盛りなので、大きななべでチキンスープ、ビーフシチュウ、カレーライス、ロシアスープなどをよくつくりました。ギョーザや、テンプラを作ったこともあります。料理しない時は、中華料理やピザの出前をとるかTVディナーでした。 また、最初の一年は僕だけが車の免許を持っていたので、父がいない時は、弟と妹の送り迎えをしました。一年後に弟が16才になり免許が取れてからは、弟も妹の送り迎えができるようになり、妹が16才になるまでの二年間は男三人が送り迎えを分担しました。父はよく日本とアメリカを往復していましたが、僕達が父を必要とする時はいつもいてくれました。最初は僕達が心配だったので日本へ行く期間は7〜10日間でしたが、僕達の成長につれて少しずつ日本滞在期間が長くなりました。母は仕事の都合で何回かアメリカにきましたが、いつもあわただしく日本に戻っていきました。 あの時も母は、年末ぎりぎりにニューヨークにきました。そして母の作ってくれたおいしい料理を食べながら、家族全員でにぎやかに、楽しく、新しい年を迎えました。その翌日の96年1月2日、夜になって父から電話をもらったときは心臓が止まるくらいびっくりしました。昼に出かけた両親が雪道で交通事故に会い、病院に運ばれていたのでした。父はあちこちあざが出来ていましたが電話が出来る程度の軽症で済みました。母は外傷はありませんでしたが心臓の近くの動脈が切れ、7時間もかかる大手術をしたのです。翌朝父から「母の手術は無事に終わった」と再度電話があり、その夕方、全員で母のいる病院へ向かいました。集中治療室のベッドに横たわる母を見たとき、妹は思わずスパゲティのお化けみたいと叫びました。事故から2週間後に退院し、1ケ月後に日本へ車椅子で戻っていきました。予定より1ケ月も長く一緒にいれたのに苦い思い出が残りました。 あれからフェニックスのようによみがえって日本の政治の世界で生き生きとしているお母さん、あの時一度死んだから、もう怖いものはないと言ったお母さん、三度目の選挙にも女神が微笑んでくれましたね。 |